大腸がんを生きる仲間

「がんになって改めて知った、走ることの意味」(1)

 テレビ・ラジオで放送される駅伝やマラソンの解説者としてもおなじみの金哲彦さん。その体に大腸がんが発見されたのは、金さんが42歳のときでした。 それから5年、今でも現役のランナーとして走り続ける金さんは、どのようにして病を乗り越えてきたのか。また、金さんにとって走ることの意味とは何か。じっくり語っていただきました。


第1回 大腸がん発覚。病気への恐怖心をやわらげたもの

新幹線のトイレで下血

2009年ゴールドコーストマラソン

 長年、陸上を続けてきて体力に自信があった私は、自分が大きな病気になるなんて想像したこともありませんでした。
 そんな私が体の異変に気づいたのは、2006年7月。長野県で開かれた「小布施見にマラソン」に参加した帰りの新幹線の中でした。トイレの便器に座ったとたん、大量の液体が出る感覚があり、「下痢かな」と見ると、便器は真っ赤に。大量の下血でした。

 さすがに驚いた私は、知り合いに紹介してもらった病院で大腸内視鏡検査を受けることにしました。でも、そのときもまだ「たいした病気じゃないだろう」とたかをくくっていました。待ち時間があったので、待合室に貼ってあった大腸がんのポスターを飽きるくらい見ていましたね。

検査が始まって、モニターに映し出された自分の腸の中を眺めながら、好奇心もあって、「これがヒダですか?」なんて、先生に話しかけたりしていました。すると、「あれっ」という感じで、今までとは明らかに様子が違うものがモニターに映し出されました。それまでの腸の表面は薄いピンク色をしていたのですが、その部分は茶色のような緑色のような変な色だったのです。それも待合室で見た大腸がんのポスターにあった写真そっくり!
先生はといえば、念入りに写真を撮ったり、組織を採取したりしています。

 私は思わず「これって、大腸がんにそっくりですよねぇ」と先生にたずねました。「ちょっと腸が荒れているだけですよ」「良性のポリープでしょう」……そんな答えを期待していたのだと思います。
 しかし先生から返ってきた答えは、「はい。まちがいないでしょう」。
 これが私へのがん宣告でした。

母との電話で号泣

金 哲彦(きん・てつひこ)氏

 大腸がん……、その病名をつきつけられたとき、私は地獄に落とされたような気分でした。「がん」という病名から連想されるのは、「死」だったからです。
「これからどうなるんだろう?」「今抱えている仕事はどうしよう」「これから仕事ができなくなるかもしれない」「生活はどうすれば……」、頭に浮かぶのはそんな悲観的なことばかりでした。

 電話で病名を伝えた妻は、ショックを受けながらも冷静に受け止めてくれました。当時小学校6年生だった息子には、後日妻からやさしく説明してもらうことにしました。
 とにかくつらかったのは、福岡にいる母親への電話でした。悲しむ母親の顔が目に浮かび、なかなか受話器を手にとることができなかったのを覚えています。

 検査の結果、自分が大腸がんだったことを告げると、電話口から「どうして……」という母親の涙声が聞こえてきました。その声を聞いたとたん、私の目からも涙がこぼれ落ちました。
 抑えていた感情があふれてきて、受話器を置いた後も涙が止まらず、10分以上声を上げて泣きました。
 その後も家でじっとしていられず、自転車で近所をぐるぐる走り回りました。ひたすらペダルをこいで、こいで、漕ぎました。やり場のない不安や恐怖を振り払いたかったのかもしれません。

手術は無事成功でしたが…

2011年バンクーバーマラソン

 日程を調整して、手術のために入院したときには、腹をくくっていました。「体の中にある悪い物を早く取ってしまいたい!」そんな気持ちでいっぱいでしたから、へんな言い方ですが、手術が待ち遠しくてしょうがなかったのです。

 手術を担当してくれた先生によると、私のがんは3センチほどの大きさで、大腸の外にはみ出てしまっていたそうですが、転移はなく、病巣はすべて取り除くことができました。

 大変だったのは、手術後です。
 麻酔から目が冷めると、私はICUのベッドに寝かされ、鼻や腕、尿道などに管がつながった状態でした。常に体を動かしていた私にとって、動くことができず、寝返りも打てないその状況はとても苦痛でした。
 また、かゆみにも苦しみました。全身がかゆくてかゆくて、かゆみ止めの薬が効かないこともあったほどでした。

 さらにつらかったのが、手術痕の痛みです。自らの我儘で、導尿用のカテーテルを外してもらったのはいいのですが、排尿時の痛みは半端ではありませんでした。膀胱が収縮すると、おなかの中の縫合部分が引きつれて、思わず声が出てしまうほど痛いのです。しかも尿は出てきませんから、改めてカテーテルを入れて貰いました。私の場合は、カテーテルを外した後も約3カ月間トイレに行くたびに痛みが走るという状態が続きました。

心に葛藤を抱えながら仕事を再開

金 哲彦(きん・てつひこ)氏

 そして、体の痛み以上に私を一番苦しめたのが、転移や再発への恐怖でした。
 考えないようにしようと思っても、つい「もしかしたらまた、がんができるかもしれない」「肺や肝臓に転移しているかもしれない」……そんな風に考えてしまいます。がんは手術が成功したからといっても、転移や再発の可能性と向き合っていかなければならないのです。

 そんな心の葛藤を抱えてはいましたが、私はすぐに仕事に復帰しました。なぜかと言えば、周囲に病気のことを公表していなかったため、できるだけ今まで通り、仕事をこなす必要があったからです。退院して約2週間後の8月下旬には、テレビでのマラソン解説の仕事を再開。さらに10月頃からは、私がコーチをしているクラブの練習にも参加し、ジョギングも始めました。
 今から思えば無謀だったかもしれませんが、ただ、そのときは自分の体と心をだましだまし仕事をこなすことで精一杯でした。

走ることが「心のリハビリ」に

 そんな私の気持ちに変化が起きたのは、11月頃、クラブでの練習の最中でした。
 生徒さんたちと他愛のない話をしながら、久しぶりに10分以上走ったとき、頭の中からふっと病気のことが消えていたのです。いつも頭から離れなかったがんの再発や転移の恐怖を、走っている間は忘れられたのです。
「やっぱり走るのっていいなぁ」と、心から感じることができました。

2011年ゴールドコーストマラソン

 小さいころから走るのが好きで、ずっと陸上を続けてきた私にとって、走ることは、ご飯を食べるのと同じように「当たり前のこと」でした。
 走ることに理由なんていらなかったし、「自分にとって走ることのメリットは何か」などと考えたこともなかったのです。
 それが、がんになったことで、改めて走ることの効用、走ることのすばらしさを実感することができました。
 私にとって、走ることは、体だけでなく、「心のリハビリ」にもなっていたのです。

そして、この日を境に、「また、以前のように走れるようになりたい」と、思うようになりました。走ることに対して、再び前向きな気持ちを持てるようになったのです。

(第2回へつづく)

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プロランニングコーチ 金 哲彦(きん・てつひこ)氏 Profile

1964年、福岡県生まれ。早稲田大学で競走部に所属。箱根駅伝では1年から4年連続で5区の「山上り」を担当。3、4年時には連続で区間賞を獲得。卒業後はリクルートに入社し、「リクルートランニングクラブ」を設立。社会人としてマラソンを続ける。92年には同クラブのコーチに、95年には監督に就任し、強豪クラブの基礎を築く。2002年にNPO法人「ニッポンランナーズ」設立し、代表に就任。プロのランニングコーチとして市民ランナーからオリンピック選手まで幅広く指導。駅伝やマラソン中継の解説者としても活躍。著書に『金哲彦のマラソンレース必勝法42』(実業之日本社)、『金哲彦のウォーキング&スローラン』(高橋書店)など多数。


「ジョギングのススメ」(1)〜まずは歩くことからはじめよう

 大腸がんの手術を受けた人でも、徐々に体力や筋力をつけていけば、走れるようになります。そのためには、絶対に無理をしないことです。
 まず、歩くことからはじめましょう。はじめから長い距離を歩く必要はありません。手術や入院で落ちた体力を回復するために、ちょっとした時間を見つけてこまめに歩くことです。
 体が慣れてきたら、外出時、ひと駅手前で下車して歩いたり、買い物も少し遠目のお店を選んで、歩いて行ったりと徐々に距離や時間を伸ばしていきましょう。1時間程度歩けるようになることを目指します。目標をクリアできたら、いよいよジョギングに挑戦です。

歩く時間を増やすには……[ひと駅手前でおりて歩く][なるべく階段を使う][なるべく車やタクシーを使わない][目的地まで遠回りする][昼休みに散歩する][少し遠目の店で買い物をする]